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東京地方裁判所 昭和58年(ワ)13442号 判決 1989年2月20日

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告佐藤仁に対し金二九八五万五八九八円、原告佐藤雄介及び原告佐藤浩平に対し各一一〇五万一九六六円、原告佐藤啓太に対し金一三二五万一九六六円並びに右各金員に対する昭和五八年一二月三〇日から各支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  第1項につき仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者の地位

(一) 原告佐藤仁(以下「原告仁」という。)は亡佐藤裕美(以下「亡裕美」という。)の夫であり、原告佐藤雄介(以下「原告雄介」という。)同佐藤浩平(以下「原告浩平」という。)及び同佐藤啓太(以下「原告啓太」という。)は、いずれも原告仁と亡裕美との間の子である。

(二) 被告は、肩書住所地において脇田産婦人科を経営する開業医である。

2  医療事故の発生

亡裕美は、第三子である原告啓太を妊娠し、昭和五七年一二月一日から、被告の経営する脇田産婦人科(以下「被告医院」という。)に通院して右妊婦及び出産に関する被告の診察を受けていたが、昭和五八年七月一六日、分娩のため被告医院に入院した。亡裕美は、和痛分娩法により同日午後零時四五分頃原告啓太を出産したが、右和痛分娩のために被告が自らあるいは得田寿美枝助産婦(以下「得田助産婦」という。)に指示して注射投与した、局所麻酔剤二パーセントカルボカイン注合計二〇ccに含まれる塩酸メピバカインによるショックのため、死亡した。

3  被告の責任

(一) 債務不履行

亡裕美が被告医院において初診を受けた昭和五七年一二月一日、亡裕美と被告との間で、妊娠及び出産についての適切な診療を目的とする準委任契約が成立したものであるところ、被告は、以下のとおり、右診療契約に基づく債務の本旨に従った履行を怠り、もって亡裕美を死亡するに至らしめたものである。

(1) 適切な麻酔剤の濃度、量の判断の過誤

カルボカイン注は局所麻酔薬塩酸メピバカインを含有する局所麻酔剤であるが、塩酸メピバカインには副作用としてアナフィラキシーショックを起こす可能性があり、妊産婦に対しては特にその危険性が高い。したがって、分娩に際して妊産婦に局所麻酔剤としてカルボカイン注を投与する医師としては、できるだけ塩酸メピバカイン濃度の薄いもの(〇・五パーセントカルボカイン注又は一・〇パーセントカルボカイン注)を必要最少量に限り使用すべきであるところ、被告は、右義務に反して、右ショック発生の危険性を十分認識せず、塩酸メピバカインの濃度の高い二パーセントカルボカイン注を、通常成人に対する基準使用量の上限である二〇cc(塩酸メピバカイン四〇〇ミリグラムを含有)もの多量にわたり投与した。

(2) 監視義務の懈怠

前記(1)のとおり、塩酸メピバカインは妊産婦に対してはショックを起こす危険性のある麻酔剤であり、かつ、ショック症状が発現した場合には、気道確保、人工呼吸、心マッサージ、静脈確保、強心剤等薬剤の投与などの措置を、脳中枢神経が無酸素状態に耐えられなくなるまでの短時間(約三分間)のうちに採る必要がある。したがって、塩酸メピバカインを多量に含有する二パーセントカルボカイン注を二〇ccもの多量にわたり妊産婦に対して投与する医師としては、右麻酔剤の使用中、常時、医師自ら妊産婦の状態を監視する義務がある。しかるに被告は、亡裕美に対して二パーセントカルボカイン注を二〇ccにわたり投与しながら、自らはこれを監視せず、別棟の自室で昼食をとり休憩し、その間、経験が浅く医学的知識も乏しい得田助産婦が付き添うのみの状態に放置していたものであって、その結果、得田助産婦は亡裕美がショック症状を呈し始めたことを直ちに発見できず、同助産婦に呼び出された小沢看護婦とともに、苦悶する亡裕美を前にして見るべき手当もせず、被告に対する通報も遅れ、亡裕美の救命を不可能にした。

(3) 救命措置の過誤

患者に塩酸メピバカインによるショック症状が発現した場合、医師としては、直ちに気道確保、人工呼吸、心マッサージ、静脈確保、強心剤等の薬剤の投与等の措置を、脳中枢神経が無酸素状態に耐えられなくなるまでの短時間(約三分間)のうちにとるべきであり、特に、本件のような重症のショックの場合は、気管内挿管又は気管切開の方法により気道確保をすべき義務がある。しかるに、被告は、気道確保のための何らの措置もとらなかった。そのため、被告が亡裕美に対して全身麻酔器やマウス・ツー・マウスで行った人工呼吸によっても、酸素が胃の中に入ってしまい、亡裕美は無酸素状態に置かれてしまったものである。

(4) 説明義務の違反

和痛分娩は元来必須の分娩法でない上、患者によっては麻酔剤によるショックを起こす可能性もある危険な分娩方法であり、しかも、人的物的設備の低い一般の開業医院においては、ショックの発生した場合の救急措置が十分にとり得る態勢にないのであるから、和痛分娩を実施するにあたり、医師は、右のような和痛分娩の危険性を十分に説明し、患者に選択の余地を与える義務がある。しかるに、被告は、亡裕美に対し、和痛分娩の危険性について何らの説明もしなかったものであり、このため、亡裕美は、あらかじめ右危険を回避することができなかったものである。

(二) 不法行為責任

(1) 民法七〇九条に基づく損害賠償責任

前記(一)(1)ないし(4)によれば、被告はまた、亡裕美の分娩を担当する医師としてなすべき注意義務に違反したものとして民法七〇九条に基づく損害賠償責任を負うことが明らかである。

(2) 民法七一五条に基づく損害賠償責任

また、得田助産婦は被告のする医療の補助業務に従事する被告の被用者であったところ、同助産婦は、被告から亡裕美に対して二パーセントカルボカイン注一〇ccを追加注入すること及びその後の観察を指示されて右追加注入をしたのであるから、亡裕美にショック症状が生じた午後零時一二分頃、直ちにこれを被告に通報する義務があるのにこれを怠り、午後零時三〇分を過ぎるまで被告に通報せず、亡裕美の症状が悪化するのを放置して亡裕美を死に至らしめた過失がある。したがって、被告は、得田助産婦の使用者として、民法七一五条に基づき、同助産婦の不法行為による損害を賠償する責任を負う。

4  損害

(一) 逸失利益

亡裕美(昭和二六年三月二四日生)は、本件医療事故当時三二歳の主婦であって、本件医療事故によって死亡しなければ、少なくとも六七歳までの三五年間家事労働に従事するはずであったものであるところ、昭和五七年賃金センサスの産業計、企業規模計、学歴計の女子労働者の全年令平均給与額は一九五万六九〇〇円であり、生活費として三割を控除し、新ホフマン方式により中間利息を控除(新ホフマン係数一九・九一七四)すると、亡裕美の死亡による逸失利益は、二七二八万三四五二円である。

(二) 亡裕美の慰謝料

亡裕美は、本件医療事故によりその生命を失って多大の精神的苦痛を受けたものであり、これを慰謝する金額としては、一五〇〇万円が相当である。

(三) 相続による承継

亡裕美の死亡により、原告仁は亡裕美の夫として、その余の原告らはいずれもその子として、亡裕美の(一)及び(二)の損害賠償請求権を左記のとおりそれぞれその相続分に従って相続により承継した。

原告仁 二一一四万一七二六円

その余の原告ら 各七〇四万七二四二円

(四) 原告ら固有の慰謝料

本件医療事故によって、原告仁は最愛の妻を失い、原告雄介、同浩平及び同啓太は、その母を失った。特に、原告啓太は、生まれながらにして母のない子となった。これによって、原告らは多大の精神的苦痛を受けたものであり、右苦痛を慰謝する金額としては、次のとおりの金額が相当である。

原告仁及び同啓太 各五〇〇万円

原告雄介及び同浩平 各三〇〇万円

(五) 葬儀費用

原告仁は、亡裕美の葬儀費用として、少なくとも一〇〇万円を下回らない金員を支出した。

(六) 原告らは、原告ら訴訟代理人に本件訴訟の提起及び追行を委任し、報酬として判決認容額の一割の金額を支払うことを約した。したがって、原告らの負担する弁護士報酬額は、次のとおりである。

原告仁 二七一万四一七二円

原告雄介及び同浩平 各一〇〇万四七二四円

原告啓太 一二〇万四七二四円

5  よって、原告らは、被告に対し、債務不履行又は不法行為に基づき、それぞれ、請求の趣旨記載の金員及びこれに対する本件訴状送達の翌日である昭和五八年一二月三〇日から支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)の事実中、原告仁が亡裕美の夫であること及び原告啓太が亡裕美の子であることは認め、その余は知らない。

同1(二)の事実は認める。

2  同2の事実中、亡裕美が原告啓太を妊娠し、昭和五七年一二月一日から被告医院に通院して被告の診察を受けていたこと、昭和五八年七月一六日、分娩のため被告医院に入院したこと、被告が和痛分娩法のため自らあるいは得田助産婦に指示して局所麻酔剤二パーセントカルボカイン注二〇ccを亡裕美に対して注射投与したこと、亡裕美は同日午後零時四五分頃原告啓太を出産したこと及び亡裕美が死亡したことは認めるが、その余は知らない。

3  同3(一)の冒頭の事実中、亡裕美と被告との間で昭和五七年一二月一日妊娠及び出産についての適切な診療を目的とする準委任契約が成立したことは認め、その余は否認する。

同3(一)(1)の事実中、被告が二パーセントカルボカイン注を合計二〇cc(塩酸メピバカイン四〇〇ミリグラムを含有)を自ら又は補助者である助産婦に指示して注射したことは認めるが、その余は否認する。

同3(一)(2)の事実中、被告が自らあるいは得田助産婦に指示して亡裕美に対して二パーセントカルボカイン注を二〇ccにわたり注射したことは認めるが、その余は否認する。

同3(一)(3)の事実は否認する。

同3(一)(4)の事実は否認する。

同3(二)(1)の事実は否認する。

同3(二)(2)の事実中、得田助産婦が被告の医療業務の補助業務に従事する被告の被用者であったこと、得田助産婦が被告から亡裕美に対して二パーセントカルボカイン注一〇ccを追加注入し、かつ、その後の観察をなすよう指示されて右追加注入をしたことは認めるが、その余は否認する。

同4のうち、亡裕美が昭和二六年三月二四日生まれで、死亡当時三二歳の主婦であったことは認めるが、その余は争う。

三  被告の主張

被告の亡裕美に対する診療経過は以下のとおりであって、被告には、何ら過失はない。

1  診療の経緯

(一) 亡裕美は昭和五七年一二月一日被告医院において被告の初診を受け、妊娠満五週、分娩予定日は昭和五八年七月三〇日と診断された。右の際の問診によれば、亡裕美は二児の経産婦であり、また、薬剤アレルギー及び特記すべき既往症はないとのことであった。亡裕美は、その後昭和五八年七月一五日まで、被告医院に通院して被告の診断を受けたが、妊娠中の所見としては、便秘症、妊娠性貧血、慢性湿疹、妊娠浮腫がみられ、時折血圧の上昇がみられたものの、特記すべきものはなく、概ね順調な妊娠経過を推移した。

(二) 昭和五八年七月一六日午前九時五〇分頃、亡裕美は、出産の徴候を訴えて被告医院を訪れた。被告が診察したところ、子宮口三指開大、児頭の下降度は中程度で胎胞形成も認められたので、被告は、分娩が開始しているものと診断し、亡裕美にその旨告げて入院させた。

(三) 同日午前一〇時五〇分頃、亡裕美は、分娩室に移され、この頃から陣痛の自然発来がみられるようになったが、この頃、亡裕美は、得田助産婦に対して麻酔をしてほしい旨申し出、得田助産婦からその旨連絡を受けて外来診察室から分娩室に行った被告に対しても、直接、麻酔の実施を依頼した。そこで、被告は、二パーセントカルボカイン注による硬膜外麻酔を施すこととし、同女の背中を消毒しながら薬を背中から注入すると一〇分くらいで効果が現れる旨説明し、午前一〇時五八分頃、二パーセントカルボカイン注一〇ccを第四、第五腰椎間の硬膜外腔に徐々に注入し、カテーテルを留置した。その後被告は、二人の外来患者を診察し、午前一一時九分頃、様子を観察するため分娩室に行ったところ、亡裕美は薬が効いてきて楽になってきた旨を述べたため、子宮口が四指開大であることを確認した上で人工破膜を実施した。以後、被告は、外来診療に携わるかたわら、午後零時の外来診療終了時までに亡裕美の様子を見るために二、三度分娩室を訪れたが、特別の変化はなかった。

(四) 午後零時を二、三分過ぎて外来診療を終えた被告が直ちに分娩室に行き、亡裕美に様子を尋ねたところ、同女は、「麻酔が切れてきたのか、ちょっと痛くなってきました。」旨を告げた。しかしまだ子宮口開大は四指半程度であったので、被告は、分娩には幾分時間を要するものと判断し、得田助産婦に対して更に二パーセントカルボカイン注一〇ccを追加投与するよう指示し、同一敷地内の自宅において食事をとった。一方、右指示を受けた得田助産婦は、亡裕美に対し、カテーテルを通じて右麻酔剤一〇ccを徐々に投与し、午後零時八分頃にその投与を終えた。午後零時一八分頃になり、亡裕美は、麻酔が効いてきて楽になったと述べ、何ら異常な所見はみられなかった。そこで、得田助産婦は、亡裕美に足袋をかけ、導尿と外陰部の洗浄を施し、分娩の器具を揃えるなどの準備を行っていた。

(五) ところが、亡裕美は、午後零時三六分頃、突然二、三回空咳をし、得田助産婦に対し、喉が渇いたので水が欲しい旨訴えた。得田助産婦は、小沢泰子看護婦(以下「小沢看護婦」という。)をブザーで呼び出した。同看護婦は直ちに分娩室に赴き、亡裕美が苦しそうな顔をしていたので、嘔気があるものと考えてのう盆を手にしたが、亡裕美は、「苦しい。手と腰がしびれる。」と言い、また、その手指には軽度のチアノーゼがみられた。そこで、小沢看護婦はインターフォンを通じて分娩室へ来るように被告に求め、昼食を終えて自室で休憩中であった被告は、急きょ分娩室に赴いた。被告が、小沢看護婦から連絡を受けた時刻は午後零時三七分であり、被告の自室から分娩室までの所要時間は、二〇秒程度であった。

(六) 被告が分娩室に入ったとき、亡裕美の口唇、手指にチアノーゼがみられ、呼吸は浅薄で応答不能の状態であった。被告は、まずカルボカイン中毒を疑い、全身麻酔器を使用し、約三分間人工呼吸で酸素吸入を行った。しかし、亡裕美の様子に改善は認められなかったので、被告は、子宮破裂を疑い、分娩の上母胎の止血を図ることとし、吸引分娩を試み、さらに矢内幸子看護婦(以下「矢内看護婦」という。)をも呼び寄せて子宮底を圧迫し、午後零時四五分に四〇五〇グラムの巨大男児を出産させた。右新生児は仮死状態であったため、得田助産婦らにおいて蘇生器を使用して新生児を蘇生せしめた。被告は、更に、亡裕美に対し、全身麻酔器の利用による酸素吸入、五パーセントブドウ糖の点滴投与、マウス・ツー・マウスによる人工呼吸並びに血圧及び脈拍の測定を自ら実施し、又は看護婦に指示して実施せしめた。この間亡裕美の鼻と口からはかなりの量の黄色の分泌物の排出がみられた。午後一時には近隣の林医師が応援に駆け付けて心マッサージを実施し、被告は強心剤ビタカンファーを心室内に注射した。しかし、亡裕美は蘇生せず、午後一時八分、死亡宣告がなされた。

(七) 亡裕美の死因は、(1) 羊水栓塞、(2) リンパ体質に由来する塩酸メピバカインによるショック、(3) 門脈圧亢進若しくは門脈圧亢進と胸腺リンパ体質の競合に由来するショック、のいずれかであると考えられ、いずれも、事前の診察によっては予見不可能であったものである。

2  麻酔剤の濃度、量の判断の過誤について

二パーセントカルボカイン注の一回の最大使用限界量(極量)は二五ccであり、臨床基準用量は一〇ないし二〇ccである。また、被告は、二パーセントカルボカイン注を、前記1(三)、(四)のとおり午前一〇時五八分と午後零時八分の二回に分割して注射している。二パーセントカルボカイン注の減少時間は約七〇分、一パーセントカルボカイン注のそれは平均約二五分であり、むしろ低濃度の麻酔剤を使用すると分娩が長引いた場合には極量を超える大量の注入が必要とされる結果にもなりかねないのであって、被告が二パーセントカルボカイン注を二〇cc、しかも、一〇ccずつ、二回に分けて注入したのは、適切な処置であった。

3  監視義務の懈怠について

前記1(三)ないし(五)のとおり、被告は、自ら第一回の注入をした後、午後零時すぎまで二、三度分娩室を訪れて亡裕美の様子を観察していたが、亡裕美には特段の異常がみられなかったものである。また、被告は得田助産婦に対して亡裕美の観察をし、異常があれば直ちに連絡するよう指示、指導し、得田助産婦は、右指示に従って常に亡裕美に付き添い、その観察をしていたものであり、また、前記(五)のとおり、亡裕美の容態急変後、得田助産婦及び小沢看護婦が被告に直ちに連絡をし、被告は、亡裕美の容態急変後一分余りで分娩室に赴いたものである。

4  救命措置の過誤について

前記1(五)、(六)のとおり、被告は、直ちに亡裕美に対して救命措置を尽くした。また、亡裕美がショック状態に陥り、胎児の娩出のための動作をできなくなってしまったにもかかわらず、原告啓太が無事出産され、しかも、何らの後遺障害なく成長していることからみても、被告が迅速適切な措置を採ったことは明らかである。

5  説明義務の懈怠について

被告は、亡裕美の依頼により和痛分娩法を施行したものである。また、医者の説明義務といっても、およそ抽象的な危険がある限り説明をする義務を負うものではないのであって、本件のような、極めて例外的に、しかも事前には医師にも本人にも予見不能な患者の特異体質により起こる、腰椎麻酔によるショックや門脈圧の亢進によるショック等の事故の可能性まで、医師において説明する義務を負うものではない。

四  被告の主張に対する原告らの認否

1  診療の経緯について

(一) 被告の主張1(一)の事実中、亡裕美が昭和五七年一二月一日被告医院において被告の初診を受け、妊娠満五週、分娩予定日は昭和五八年七月三〇日と診断されたこと、亡裕美が二児の経産婦であること、昭和五八年七月一五日まで被告医院に通院して被告の診察を受けたことは認め、その余は知らない。

(二) 同1(二)の事実中、亡裕美が昭和五八年七月一六日朝、出産の徴候を訴えて被告医院を訪れたことは認め、その余は知らない。

(三) 同1(三)の事実中、亡裕美が得田助産婦及び被告に対して麻酔の施行を依頼したことは否認し、その余は知らない。

(四) 同1(四)の事実は知らない。

(五) 同1(五)の事実中、亡裕美が午後零時三六分頃、口渇を訴えたことは否認する。亡裕美は、午前零時一二分頃、口渇を訴え、ショック症状を現し始めたものである。

(六) 同1(六)の事実中、被告が人工呼吸を施したこと、午後零時四五分頃原告啓太を出産させたこと、被告が亡裕美に対してブドウ糖の点滴投与を行ったこと、林医師が応援に駆け付けて心マッサージを実施するなどしたこと、午後一時八分亡裕美の死亡が宣告されたことは認めるが、その余は知らない。

(七) 同1(七)の事実は否認する。

2  同2ないし5の主張は、いずれも争う。

第三  証拠<省略>

理由

一  原告仁が亡裕美の夫であること、原告啓太が亡裕美の子であること及び被告が肩書住所地において産婦人科を開業する医師であることは、当事者間に争いがなく、原告仁本人尋問の結果によれば、原告雄介及び原告浩平が原告仁と亡裕美との間の子であることを認めることができる。

二  亡裕美が原告啓太を妊娠し、昭和五七年一二月一日から被告医院に通院して被告の診察を受けていたこと、右初診時、妊娠満五週であり、分娩予定日は昭和五八年七月三〇日と診断されたこと、同年七月一六日朝、亡裕美が分娩のために被告医院に入院したこと、右入院中、亡裕美が局所麻酔剤二パーセントカルボカイン合計二〇ccを投与されたこと、及び亡裕美が同日午後零時四五分ころ原告啓太を出産し、出産後間もなく死亡したことは、いずれも当事者間に争いがない。

原告らは、亡裕美の死亡は右局所麻酔剤によるショックに起因するものであり、右は、また、被告が診療契約に基づく義務に違反したか、又は被告若しくはその被用者である得田助産婦の過失によるものであると主張するので、亡裕美の死因の点はしばらく措き、まず、同人の死亡に至るまでの診療の経過についてみるに、<証拠>を総合すると、次の事実が認められ、他にこれを左右するに足りる証拠はない。

1  亡裕美は、二児の経産婦であり、初診の際の問診において薬剤アレルギー及び特記すべき既往症はない旨を被告に述べ、同人の妊娠中の所見としては、便秘症、妊娠性貧血、慢性湿疹、妊娠浮腫が見られ、時折血圧の上昇があったものの、妊娠経過は概ね順調であった。

2  亡裕美は昭和五八年七月一六日午前九時五〇分ころに出産の徴候を訴えて被告医院を訪れたが、当時、同人の子宮口は三指開大で、胎児頭部の下降度は中程度であり、胎胞形成も認められたため、被告は、分娩が始まっていると判断し、亡裕美にその旨を告げて同人を入院させた(亡裕美が右同日被告医院に入院したことは、当事者間に争いがない。)。

3  同日午前一〇時五〇分ころ、亡裕美を診察し、同人の子宮口が三・五指開大の状態であることを確認した得田助産婦に対し、亡裕美は、麻酔の実施方を要望し、得田助産婦からその旨の連絡を受けた被告は、亡裕美に対し、和痛分娩(麻酔によって痛みを和らげる方法による分娩)の目的で、同一〇時五八分ころ、麻酔剤である塩酸メピバカインを含有する二パーセントカルボカインを一〇cc、第四、第五腰椎間の硬膜外腔に注入し、カテーテルを留置した。

4  被告は、右麻酔後同一二時すぎころまでの間、得田助産婦を亡裕美に付き添わせて外来患者の診察に当たっていたが、同一一時九分ころには、亡裕美に麻酔の効果の発現を尋ね、その発現を確認し、また、診察の結果、卵膜に包まれた羊水の膨隆を認めて亡裕美に人工破膜を施し、羊水の混濁のないことを確認した。

得田助産婦は、同一〇時五八分ころから同一二時すぎころまでの間、連絡用のブザーを亡裕美に持たせた上で、二度、各一分間亡裕美のもとを離れた以外は亡裕美に付き添っており、その間、亡裕美には特に異常はなく、また、被告は、右のほかに約三回、亡裕美のもとへ、その様子を見に行った。

5  午後零時すぎころ、外来患者の診察を終えて亡裕美の様子を見に行った被告に対し、亡裕美は「麻酔がきれたのか、ちょっと痛くなってきました。」と告げたが、亡裕美の子宮口開大が四指半程度で、全開大(五指程度)に近いものの、分娩には幾分時間を要すると判断した被告は、得田助産婦に対して二パーセントカルボカイン一〇ccを追加投与するよう指示した上で、同一敷地内の自宅において食事を取ることとした。

右指示を受けた得田助産婦は、亡裕美に対し、カテーテルを通じて二パーセントカルボカインを一〇cc投与し、同零時八分ころ、投与を終えた(得田助産婦が右薬剤一〇ccを追加投与したこと及び亡裕美に対して右薬剤が合計二〇cc投与されたことは、当事者間に争いがない。)。

6  得田助産婦は、同零時八分ころから同零時三七分ころまでの間、二度、約一分間亡裕美のもとを離れた以外は亡裕美につきそっていたが、この間、亡裕美には特に変わった様子はなく、また、同助産婦は、同零時一二分ころ、亡裕美の子宮口の開大の程度から出産が近いものと判断して同人に対して足袋をはかせ、導尿と外陰部の洗浄を施した。

7  亡裕美は、同零時三六分ころ、二、三度空咳をし、得田助産婦に水が欲しいと求めた。亡裕美に対する右処置のために手を汚した得田助産婦は、助力を得るために看護婦を呼び出すべくブザーを押し、亡裕美の脈拍を計っていたところ、亡裕美の爪が少しチアノーゼを呈し、同人の右頬にも紫の斑点が二つ生じたのに気付いた。

右呼出しに応じて分娩室に来た小沢看護婦は、亡裕美の顔を見て嘔気があるものと考え、膿盆を手にしたが、亡裕美が「苦しい。手と腰がしびれる。」と訴えるのを聞き、インターフォンを通じて被告に分娩室へくるよう求めた。

8  昼食を終えて自室で休憩中であった被告は、同零時三七分ころ、小沢看護婦からの右連絡を受けて急拠分娩室に赴き、分娩室において、亡裕美の口唇、手指にかなりひどいチアノーゼを、また、同人の呼吸は浅薄な状態にあることを認めた。そこで、被告は、全身麻酔器を使用し、数分間人工呼吸で酸素吸入を行ったが、亡裕美の容態の急変の状況から、同人が子宮破裂を引き起こしたものと判断し、小沢看護婦をして近所の産婦人科医である林医師ほか二軒の病院に応援を依頼させるとともに、亡裕美に吸引分娩を施すこととし、矢内看護婦をも呼び寄せて同看護婦に亡裕美の子宮底を圧迫させ、午後零時四五分ころ、亡裕美に四〇五〇グラムの男児(原告啓太)を出産させた。右新生児は仮死状態であったため、得田助産婦らは、蘇生器を使用して児を蘇生せしめた(亡裕美が午後零時四五分ころ原告啓太を出産したことは、当事者間に争いがない。)。

9  右分娩後、被告は同女に対し、全身麻酔器の利用による酸素吸入、マウス・ツー・マウスによる人工呼吸及び五パーセントブドウ糖の点滴を行った。また、午後一時ころには、応援に駆け付けた林医師が亡裕美に対して心臓マッサージを実施し、被告も強心剤ビタカンファ-を亡裕美の心室内に注射したが、亡裕美は、蘇生せず、午後一時八分ころ、死亡するに至った。(亡裕美の死亡の事実は、当事者間に争いがない。)。

三  そこで、次に右に認定した亡裕美に対する診療の経過を基に、同人の死因について検討する。

<証拠>によれば、二パーセントカルボカイン注一cc中には二〇ミリグラムの塩酸メピバカインが含まれること、塩酸メピバカインによって稀にショック症状を生ずことがあること、リンパ系の臓器が通常より大きいリンパ体質の人は臨床的にはショックを生じ易いこと、気道粘膜の細血管網の充血は薬物によるショック状態が生じた場合に良く見られる症状であること、ショックを生じた場合には血圧の低下、脈拍の弱下、チアノーゼ等の症状が現れることがそれぞれ認められ、また、亡裕美の解剖所見について見ると、同人の脾臓の重さは二三五グラム、大きさは一三・五×九・五×四・五(単位はセンチメートル)であって、通常人のそれが重さ九〇ないし一二〇グラム、大きさが一〇・五×六・五×二・五(単位はセンチメートル)程度であるのに比べて著名な腫脹があり、脾臓の血量が極めて多く、表面の出血もあること、気道粘膜の細血管網は充血して口蓋扁桃に中等度の腫脹があり、喉頭部に浮腫があって各リンパ節の腫脹があること、各臓器の漿膜下に多数の溢血点があり、各臓器の血量が一定でないことがそれぞれ認められるところ、前記認定のとおり、亡裕美に対してカルボカイン注がされ、同人には死亡直前にチアノーゼ、呼吸困難、しびれ等の症状が見られた事実に照らすと、亡裕美の死因として塩酸メピバカインによるショックを疑い得ないではない。

しかしながら、<証拠>によれば、一般に塩酸メピバカインによるショックはアナフィラキシー様ショックの形態を採り、注入後五分ないし六分で症状が現れるものであること、一方、羊水栓塞症は分娩中に羊水成分が母体血中に流入し、母体に急性ショック、出血、乏尿等の劇症を生ずるもので、病理としては肺小動脈の閉鎖、肺動脈圧の亢進、反射性血管収縮、心搏出量の低下、低血圧、肺の浮腫と充血、反射性呼吸促進、気管支収縮、呼吸困難等のアナフィラキシー様の病態を示すことが多く、その症状は悪心、嘔吐、軽い頻脈やチアノーゼ等の前駆症状の後、チアノーゼ、呼吸困難、咳、痙攣発作等のショック症状を生ずるものであること、羊水栓塞症であるかどうかは臓器の組織学的検査を実施しなければこれを見落とす危険があるとされていることがそれぞれ認められる。

右認定の事実と、亡裕美に対するカルボカイン注は第一回目が前同日午前一〇時五八分ころ、第二回目が同日午後零時八分ころであり、同人が空咳をして口渇を訴え、右頬のチアノーゼ及び呼吸困難が現れたのが同零時三六分過ぎころであるという前記認定の事実とを対比すると、塩酸メピバカインを含む薬剤(カルボカイン注)の投与と右症状の出現との間の間隔が長きに過ぎ、亡裕美の死因を右薬剤に起因するショックによるものと認めるには足りないというほかなく、かえって、同人の死因を羊水栓塞症によるものとしても、出現した症状の上からは格別の矛盾もないというべきである。

もっとも、<証拠>は亡裕美の死因を右薬剤によるショックであるとし、また、<証拠>には羊水栓塞症は喉頭部の浮腫の有無によって肉眼的に判断しうる旨の供述部分が存するが、同医師は亡裕美の臓器について組織学的検査を実施していないことが<証拠>によって認められ、前記認定のとおり、右検査を実施することなくしては亡裕美の死因が羊水栓塞症によるものであるかどうかを的確に判断することができないことに照らすと、(後述の事情にもかかわらず、津田医師が肉眼的検査を誤りなく亡裕美の臓器についてしたことを前提としても、)右各証拠によっては同人の死因を右薬剤に起因するショックによると確定するには足りないというべきである。

なお、<証拠>は組織学的検査を実施した上で鑑定の対象とされた臓器について羊水栓塞症を否定する結論を導いたのであるが、<証拠>によれば亡裕美の血液型はABO式のA型、高津証言によれば高津鑑定の対象とされた臓器の血液型はO型であることが認められ、鑑定のために津田医師から高津医師の元へ送付された臓器は亡裕美のものとは異なることが明らかであり、高津鑑定が亡裕美の臓器を対象とするものでない以上、同鑑定によっては亡裕美の死因が羊水栓塞症であることを否定するに由ないものというほかない(本件においては、事実究明の鍵となる鑑定資料の取扱いの想像を超える杜撰さの故に、専門的分野に関して司法作用を補助することが期待されている鑑定の手続がかえって事実認定を誤らせるなど、司法作用の妨害を来す原因となり兼ねなかったもので、これに依拠して判断をした場合における司法に対する信頼の毀損の深刻さは、人をして慄然とさせるものがある。)。

四  以上のとおり、亡裕美の死因が塩酸メピバカインを含むカルボカイン注によるショックに起因するものと認めるに足りる証拠もないから、原告らの主張のうち、薬剤の濃度ないし使用量を誤って投与した点、薬剤の投与後監視を怠って右薬剤によるショックの出現を適時に発見し得なかった点、右薬剤によるショックの出現後速やかに気道確保、人口呼吸、心臓マッサージ等の適切な救命措置を講じなかった点、又は薬剤の使用によってショックを生ずるなどの和痛分娩に伴う危険性について説明して亡裕美に危険を回避する機会を与なかった点に債務不履行ないし過失がある旨の主張は、その前提を欠き、失当であるというほかない(もとより、前記認定の右薬剤の投与の経緯に照らし、本件においては、右薬剤の濃度、使用量を誤ったことを認めるにも足りない。)。

もっとも、分娩中の亡裕美の状態を監視すべき義務及び同人に異常が生じた後の救命措置に関しては、原告は、その主張に係る亡裕美の死因とのかかわりにおいてのみ被告の義務違反を主張しているものとも解されないので、この点について別に検討するに、前記認定のとおり、得田助産婦は亡裕美のもとに殆ど付きっきりと言って良い状態であり、短時間同人のもとを離れた際にも同人自ら看護婦に連絡することができるようにされていたほか、被告本人も外来患者の診察、食事、休憩はいずれも分娩室にごく近い場所において行っており、現に本件においても、亡裕美の容態急変後連絡を受けて直ちに同人のもとへ来ている事実に照らすと、被告又は得田助産婦において亡裕美の監視を怠ったものということは到底できないし、小沢看護婦からの連絡を受けて亡裕美のもとへ来た後、被告は、前記認定のとおり、亡裕美の容態から同人が子宮破裂を引き起こしたものであり、まず、出産を終了させるべきものと判断し、小沢看護婦をして近くの林医師の応援を求めさせ、小沢看護婦及び得田助産婦を手伝わせて前同日午後零時四五分ころ吸引分娩の方法により亡裕美に原告啓太を出産させ、その後、亡裕美に酸素吸入、マウス・ツー・マウスによる人口呼吸、五パーセントブドウ糖の点滴を行い、午後一時ころには、応援の林医師による心臓マッサージを実施し、また被告において強心剤を投与するなどしたものの、亡裕美は午後一時八分ころ、死亡するに至ったものであって、右の間に被告の講じた救命措置について過誤を認めることもできない。なお、<証拠>によれば、被告は亡裕美に対して気管内挿管又は気管切開の方法による気道確保の措置を講じなかったこと、及びそれをするためには酸素吸入を中止しなければならなかったこともあってこれをしなかったことが認められるが、前記認定のとおり、被告は亡裕美について子宮破裂を疑い、同人の出産を優先したものであり、また、<証拠>によれば、子宮破裂の症状は急性貧血、腹膜刺激性症状(顔面蒼白、冷汗、悪心等)であり、子宮破裂に対する処置は胎児と胎盤を除去した後に子宮の摘出術を行うべきものであることが認められ、右認定に反する証拠はないから、被告が亡裕美について子宮破裂を疑い、出産の完了を優先したことにも、過失はないというべきである。

五  右認定のところからすれば、被告又はその被用者である得田助産婦に不法行為上の過失もないことも、また、多言を要しないというべきである。

六  よって、原告らの本訴請求は、いずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 江見弘武 裁判官 小島正夫 裁判官 片田信宏)

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